北中通り商店街に激震! 斉藤会長、ついに引退!

高円寺北中通り商店街の長老の一人、斉藤会長(さいとう電気サービス)が10年間勤めた会長を引退!! 近いところでは、蕎麦屋→米屋→豆腐屋→電気屋ときて、後任は床屋さんの竹中会長〜

総会での正式引退後、ご機嫌に酒を振る舞う斉藤元会長

15年ほど前、完全にシャッター商店街と化していた高円寺北中通り商店街。当時は、戦後に店を始めた人たちが高齢で引退したり病で倒れたりするタイミングで、後継者がいない店の閉店が続いていた。当時は商店会の解散や、隣接商店街に吸収合併してもらうなどの案も出るほどの状態。借り手がいなくて廃屋化した旧店舗を廃墟マニアが写真に来るありさま! 失礼な! 北中通りはまだゴーストタウンじゃない〜!!

そこへ当時の副会長の斉藤さんや元会長の金沢元吉氏(藪蕎麦)らが、これはヤバイと若手をけしかけ始める。当時、若手の店舗は古着屋のモンさん、串焼きDizzさん、ショットバーのバーボンハウスさんの3店舗のみで、彼らがシャッター商店街起死回生の年2回開催のフリーマーケット企画を提案(これが後に北中夜市に形を変える)。残存する店舗の大半が高齢者の店となっていたのだが、突如イベントの日に若者たちを目の当たりにした長老たちがテンション上がりまくり、「よし! じゃあ若い奴らに安くで店を貸して活気付けよう!」ということになり、当時の会長のお米屋さんも完全に江戸っ子気質を全開に出して異常な太っ腹とやせ我慢で、「いくらでも構わねェ、俺は儲けなんざ要らねぇよ!」と、自分の持つ空き店舗を激安で放出(すごい!!)。 そこで古着屋モンさんの活躍でヒカルくんこと山下陽光に話が行き、その勢いでヒカルくんと共に素人の乱1号店として北中通りに出店。この辺りで斉藤さんの活躍も大変なことになっていて、いろんな商店主を説得してくれたり、店の面倒を見てくれたりとだいぶ世話になった。うちら以外にも後に見ず知らずの若い人が店を開きたいと相談に来るたびに藪&斉藤コンビで相談に乗ってあげたりと半端ない尽力。もう自分のことのように他人に頭下げてくれたりして店舗を仲介してくれ、若手の出店が相次いだ。う〜ん、ここまでする人なかなかいないね〜。しかも、ほかの商店主たちもみんなで寄ってたかって若手の店に行って「経営大丈夫か!?」とか、「お客さん紹介してやる」とか手伝ってあげてたりしてた。いや〜、北中通りスゲー!

そして、若手の店舗が増えてくると、若手にどんどん企画案を出させたり、多少無茶な企画でもどんどん若い奴らに任せたりしていた。組織なんかでよくありがちなのは、自分の権力をなかなか手放さずに、若手や新人には好き勝手やらせないとばかりに幅を利かせるジジイなんかだが、そういうのが中枢にいるとコミュニティは成長しない。しかし斉藤さんはじめ当時の商店会の中心の人たちの多くはまさにその真逆。しかも、すぐに酒持って若手の店に押しかけて「最近どうだ!」とか話をしに行ったし、何かイベントごとがあるとすぐに打ち上げと称して酒宴が開かれ、貧乏な若者たちがタダ酒やタダ飯目当てに群がるという光景が度々繰り広げられた。もちろん、団塊世代特有の勢いで若者たちに無理難題をふっかけたり、異常な女好きの藪さんが年甲斐もなく女の子に言い寄ったりしてみんなが逃げ散ったり、面倒なことも多々あるが、それを差し引いたとしてもやはり彼らの功績は大きい。ほかの商店街では、若手は会合などにはあまり参加せず、長老たちの寄り合いになっているような組織が多いが、北中通り商店街は総会などでは参加者の半数以上は若手の店という場合が多く、これが斉藤会長時代の功績のひとつだ。若手の店も斉藤さんに昔世話になって感謝してる人はかなり多い。

そういえば、随分前、京都の帆布の会社で社長が亡くなってお家騒動化したとき、ずっとサラリーマンやってた長男が突如現れて社長に就任し、長く職人としてやって人望も厚い弟を追い出したことがあった。どちらが正しいかとかは置いといたとして、結局は従業員や職人たちの大半は面倒を見てくれて行動を共にしてきた弟の方に流れていった。行動を共にしてきたり、親身になって動いてくれたりしてくれる人への信頼だろう。商店街も同じで、各店主は全員が一国一城の主で、ある種の職人でもある。そんな奴らの集まりだから、これは一筋縄ではいかない。会社組織的な年功序列やら実力主義、トップダウンのようなサラリーマン的なものは商店街では通用しない。どれだけ対等に接していけるか、深入りしすぎずに親身に接していけるか重要だろう。うわー、これは至難の技だ〜

ちなみに、次期会長の床屋さんは完全に職人タイプ。別に偉そうに物をいう人でもなく、距離感はかなり近い。おお、これは斉藤さんの後任としては完璧! これは将来の北中通りも安泰に違いない!!!!!!